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【吉祥寺の歴史シリーズ】明暦の大火

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吉祥寺の街には色々な歴史が古くからあります。
吉祥寺村の移住や、生活、現在の形になるきっかけなど、深堀すると様々な話題がいっぱい。
本ホームページは吉祥寺の情報だけでなく、歴史などもこれからは網羅していこうと考えております。

第1回は、吉祥寺が現在の場所となったきっかけの1つ「明暦の大火」
「火事と喧嘩は江戸の華」とよく言いますが、明暦の大火に関しては江戸の三大大火に数えられる位の甚大な被害をもたらしました。
火事で焼け出された方々が移り住んでできた吉祥寺、そこへつながるきっかけからご紹介していこうと思います。

●明暦の大火の原因
別名「振袖火事」などとも言われますが、調べた資料ではよく聞く原因以外にも諸説あります。

1.亡き娘の供養に燃やした振袖が風に舞いあがって本妙寺の本堂に燃え移ったことによる「失火」
2.改易(身分を平民に落とし、財を没収する江戸時代の刑罰)された大名家の家臣による「放火」
3.幕府による都市改造のための「放火」

1はよく聞く「振袖火事」の原因で、調べるとオカルト的な話も見られますね。
2は手元の資料からで、こちらに関しては江戸幕府当局が「火を点けた者を見つけたら訴え出るように」との命令が大名などに出されているとのことでした。
3に関しては治安の悪化や疫病などの蔓延を重くみた幕府が都市の改革に着手しようとした際、住民の立ち退き問題などで中々進まなかったことによる計画…という、よくある「陰謀論」の一種と思われます。

上記の原因の出火、最初の場所から順を追い次々と出火(同時多発的にではなく、鎮火前に次の火の手が出るという状況だったそうです)したことが火が広がった要因であると考えられます。
後の分析で3か所からの出火(本妙寺、飯田橋周辺、麹町5丁目)だったと分かっています。
上記の場所での出火が、強風の中消火が間に合わず燃え広がったことが被害の拡大を招いたのです。


●焼失被害
大名屋敷500、旗本屋敷770、神社仏閣350、町屋400町、片町800町などが焼失、焼死者10万7046人。
江戸城(本丸・二の丸・三の丸)はもちろん、取り囲んでいた町地も含めて江戸の中枢部分がほぼ焼け落ち、火は芝の海岸まで達したそうです。


●吉祥寺の移動
現在の水道橋にあった本郷元町、ここに曹洞宗諏訪山「吉祥寺」がありました。
門前町が「明暦の大火」で焼失し、その後移転。
その際に元の「吉祥寺」を名前に冠したことが現在のきっかけです。
なお、「明暦の大火」で焼失した「吉祥寺」自体は、現在本駒込に移動して現存しています。

●三大大火
戦火や震災を除くと日本史上最大の火事がこの「明暦の大火」です。
最初に「江戸の三大大火」のお話しをしましたが、「明暦の大火」以外に「明和の大火」「文化の大火」がございます。
いずれも出火時の強風が要因で大延焼を引き起こしております。
風の強い日は現在も火の取り扱いには気を付けたいですね。

ちなみに、規模が大きかったからか「世界三大大火」にも数えられることもあるそうです。
こちらは他に、西暦64年に起こった「ローマ大火」、1666年に起こった「ロンドン大火」とともに数えられます。


●終わりに
今回「明暦の大火」を扱わせていただきましたが、移転後のお話しなどもこれから連載予定です。
また次回お楽しみに。