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【吉祥寺の歴史シリーズ】吉祥寺村ができるまで

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吉祥寺の街には色々な歴史が古くからあります。
第一回でお話ししました【明暦の大火】で焼き出された住人達。
彼らはどのようにしてこの【吉祥寺】の地に移り住んだのでしょうか?
調べていくと、明治期には【武蔵野村】という名前も見かけましたため、一緒にご紹介します。

●都市計画によって移住した住民たち
明暦の大火後、時の幕府は同じ過ちを繰り返さぬよう、火除地を設けることとした。
火除地とは、防火用の空地・街路などを指す言葉だ。
家屋が密集していたことで火事が大きくなってしまった反省を生かしたかたちである。

旧吉祥寺下の人々も、その区画整理のあおりを受けて移住となった。
移住の際には幕府から今でいうところの援助金や税制優遇などを受け、土着の百姓が浪人などと協力して土地を開墾、そこに移住者たちを住まわせた。
開墾のタイミングと同時期位に玉川上水の整備がされ、広大な畑地に生まれ変わっていった。
この際に移住者たちは自分たちの村に愛着のある【吉祥寺】の名前を付け、【吉祥寺村】が誕生した。


●鉄道の開通と町村合併
明治に入り、町村制が公布される。
その施工に先立ち、大規模な市町村合併が行われた。
合併前の日本では、たくさんの村などが乱立しており、それをそのままにすると収拾がつかなくなるというおそれがあったための対策だった。
吉祥寺村も例外ではなく、西荻・関前・境の村と井口新田飛地を合わせて【武蔵野村】となった。
名前の由来は武蔵野台地からと、合併前の村々のどれとも被らないように考えられたことによる。
ちなみに当時の住所は『神奈川県北多摩郡武蔵野村』である。

1889年には甲武鉄道(今のJR中央線)が開通。
当時は新宿、中野の次は境の駅で、吉祥寺にも駅が欲しいと地元住民は考えました。
最初の候補地は五日市街道との交差地点だったが、一部住人からの反対意見が続出。
ちなみに反対意見は「東京へ行く人が増えて農業が成り立たなくなる」「新宿に若者が遊びに行ってしまう」などがあったようだ。
そこで、地元有力者8名が交渉し、手を貸したのが四軒寺の方々。
月窓寺の土地を借りれるよう交渉、資金も205名の出資者から集め1899年12月30日に【吉祥寺停留場】(現在の吉祥寺駅)が完成しました。

●現在の町名区分に残る名残
資料を見ていた際に筆者が気付いたことなのですが、現在の武蔵野市の町名区分の地図は、明治期の大字別地番の区分によく似ています。
現在の市の区分の元になっているだけあって、この明治期の区画整理が現在にも生かされているようです。
現在の吉祥寺北町から御殿山までのところが『吉祥寺』、緑町・西久保地区が『西久保』、八幡町から境南町などの武蔵境地域が『境』と、現在も土地名に名残がありますね。

こうして土地の事を調べると、現在でも続いているものはたくさんありますね。
次回もこのような発見ができるような歴史を調べてご紹介します♪