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【吉祥寺パークロード商店街シリーズ】第2回・吉祥寺南口の歴史

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【吉祥寺パークロード商店街シリーズ】第2回は吉祥寺南口の歴史になります。
パークロード商店街を含む南側の地域の開発は関東大震災後にさかのぼります。
大震災の被害が少なかった東京西部に多くの人が移住、都市化するとともに鉄道計画が持ち上がりました。
それまでは田園風景と井の頭公園のみだった南側に、駅や建物が出来上がっていき、ターミナルとして活性化していくまでをご紹介します。

●井の頭線の開通
大震災後の都市化に伴って、交通網の整備が必要になりました。
現在の井の頭線、渋谷~吉祥寺間の鉄道計画が帝都電鉄(現在の京王電鉄)によって開通の運びとなったのは時代の流れに乗ってのことでした。
1933年に渋谷~井の頭公園間が、翌1934年には吉祥寺までの全線が開通となりました。
この際駅舎含めた南部の再開発が始まりましたが、駅南の水道道路(井の頭通り)を高架橋でまたぐ関係で、駅舎も高架となりました。
現在も井の頭線の入り口が3階の高さにあるのはその名残となります。
南口駅前の開発は駅の開通に伴って開始となりました。


●開発同時からバスの発着地に
開発が進むとともに、現在のパークロード商店街になる商店街が出来上がりました。
当時からバスが通る道としても活用されており、1960年代くらいまでは駅前に広場があり、バスの発着地やタクシー乗り場、公衆電話場が設置されておりました。
1970年に入るとターミナルエコーも出来、人の往来が激しくなったことからパークロード商店街のあたりには路上駐車の車が増え、バスも中々通れないような混雑具合だったそうです。
その頃になると道路はコンクリートで舗装されて現在に近い形となりました。


●南北の横断を阻む「開かずの踏切」
上記の通り1960年代は交通量の多さが際立った頃。
いわゆる「開かずの踏切」によって南北は分断されているような状態でした。
当時は1時間以上開かないこともザラだったそうです。
駅舎の中で南北に通じる通路はありましたが、高架橋化によって解消されるまでは往来が大変だったそうです。
高架橋化に伴って誕生したのが「吉祥寺ロンロン」、現在のアトレ吉祥寺です。

●名店が集まる道
『曼荼羅』や『鮨藤』などの老舗が営業するパークロード商店街、こちらには13年前には文化人には有名な喫茶店「ボア」がありました。
ヨギジーこと劇団め組の与儀社長も利用したことがあるお店で、様々な著名人・文化人の「たまり場」となっていたそうです。
現在タピオカ店やチェーン店も増えてきましたが、新旧混じった通りとして現在親しまれております。


今回は南口の歴史についてご紹介いたしました。
高架橋設置までの分断で北と南は交流が少なかったなどのお話がありますが、それは次回またご紹介いたします。