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【吉祥寺の歴史シリーズ】吉祥寺周辺にあった軍需工場

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吉祥寺の街には色々な歴史が古くからあります。
関東大震災後に被害の少なかった東京の西側に人口が流入、それに伴い学校の移転、戦時体制に伴う軍需工場の建設が相次ぎました。
今回はその内の「軍需工場」についてご紹介します。
戦争で使う航空機のエンジンの製造を行っていた工場があったせいで空襲も大変多かったそうで、そのあたりも記載させていただきます。

●農業から工業へ
転入者の住宅地として発展していった武蔵野村は、人口の増大に伴って町制を敷いて武蔵野町となりました。
農村から都市へと発展した影響か農地や農業従事者が減少していきました。
新たな流れとして軍需工場がこの地に開設されていきました。
1930年には横河電機製作所が、1938年には中島飛行機武蔵製作所が建設、航空機のエンジンなどが生産される地となりました。
また、三鷹市側に日本無線が同1938年に工場を建設。
武蔵野と三鷹に重要機器の軍需工場が建つこととなりました。


●製造していたもの
横河電機製作所では航空機などの計測器が、中島飛行機武蔵製作所では航空機のエンジンがそれぞれ生産されておりました。
計測器は航空機の制御に欠かせない機器、エンジンは航空機の心臓とそれぞれ大変重要な部品でした。
生産されたエンジンは零戦などに組み込まれていたそうです。


●勤労動員で学生が働く地に
戦争末期には国民が戦争に総動員されることに。
吉祥寺の地も例外ではなく、上記の工場に学生たちは勤労動員されました。
軍事拠点ゆえに空襲も激しく、中島飛行機武蔵製作所には1944年に東京で初めてのB29からの攻撃が行われ、終戦まで合計9回も空襲があったそうです。
近隣の地域には工場を守るために高射砲陣地も作られたため、そこも含めて激しい攻撃が行われたそうです。
現在、工場近隣だった寺の墓地には、当時の爆撃や機銃掃射で傷が付いた墓石が今も残されているとか。

●戦後
横河電機製作所は戦後会社を再建し、現在横河電機株式会社としてサッカーチームも保有する企業として現在も武蔵野の地に存在しております。
中島飛行機武蔵製作所は戦後に敷地が進駐軍に接収。
後に返還されて現在は市役所やグリーンパークとなっております。

現在、武蔵野ふるさと歴史館で「戦争と武蔵野VI」展にて当時のことを詳しくご紹介しております。
15日(土)までの開催のため、機会があればこちらを訪れてみてください。